ヨゼフ・フライナーデメッツは1879年に中国に上陸しました。この19世紀後半は西欧諸国や日本がアジアの植民政策に力を入れた時期で、植民地の人々にすれば西洋的なものはすべて憎いという時代でした。このような時代の宣教活動が非常に厳しいものであることはたやすく想像できますが、それと同時に西欧諸国の圧力によって宣教活動がサポートされた時代でもありました。このような宣教活動のことを「精神的植民政策」と呼んで非難することがありますが、その反面、福音がまったく知らされていないところにキリストの善き知らせが告げられたときでもあったのです。ヨゼフ・フライナーデメッツはこのような時代にあって、非常にバランスの取れた、愛に基づいた宣教を行った人でした。
宣教スタイル
アーノルド・ヤンセンが宣教師養成、派遣の場における優れた宣教師であったのに対し、ヨゼフ・フライナーデメッツは実践の場における宣教師として、優れた模範を私たちに残しました。フライナーデメッツは、中国からの初めての手紙に、「中国は私の第二のふるさとになりました」と書いていますが、この言葉は彼の宣教スタイルを非常によく表しています。彼は中国に来ると、文化、習慣、言語など様々な勉強をしましたが、一番大切な科目は「この国の人を愛すること」だったと言っています。そのために彼は中国の人々と同じ服を着、同じ帽子をかぶり、同じようにひげを伸ばし、同じように頭を剃り、同じものを食べ、同じような生活をしました。彼はパウロの「すべての人に対してすべてのものになりました」(1 コリント9章22節)という言葉を自らのモットーとし、中国人になることから宣教活動を始めたのです。
愛のうちに
さて、フライナーデメッツは司牧、養成、事務、視察など様々な活動を行いましたが、彼にとっての宣教とは次のようなものでした。
「人々が愛を受ける力を持っていることを発見し、彼らをますます深く愛し、自らの中に住んでおられる愛なるお方を、彼らとともに分け持つことができるようにすること」
彼は、ひたすらこのような態度で人々と接しました。中国の素晴らしいところをよく理解し、その中に神の働きを見いだしました。彼の押しつけることのない宣教は多くの人に受け入れられ、神言会の担当した山東省南部のキリスト教共同体は大きく発展し、中国人司祭も次々に誕生しました。
迫害の中で
宣教活動にあたっては、もちろん壁にぶつかり、迫害を受けることも度々ありました。1900年には義和団による迫害が厳しくなり、当該地区の総督から全員退去命令を受けたこともありましたが、彼は退去の途中で数人の仲間とともに自らの宣教地に戻ってしまいました。彼にとって恐れなければならないのは迫害ではなく、「自分の義務を果たしていないのではないか」ということだけでした。この義務とは「神のみ旨」のことです。彼は活動がうまくいかないとき、「風はその思いのままに吹く」(ヨハネ3章8節)というみ言葉を思い出し、他の人のうちに働いておられる聖霊に自分を従わせること、信仰のたまものはすべて神ご自身から来ること、聖霊の働くところへはどこへでも行くことを謙虚に受け入れたのです。フライナーデメッツは1908年1月28日、当時流行したチフスのために天に召されましたが、その宣教師としての優れた模範は今も色あせることなく私たちに豊かな示唆を与えてくれます。